国民(国家)社会主義ドイツ労働者党/ナチ党/ナチス/ナチズム
ドイツの全体主義政党。一般にナチ党という。ヒトラーに率いられて1933年にドイツの政権を握り、ユダヤ人に対する絶滅政策などを推し進め、ヨーロッパを第二次世界大戦に巻き込んだ。
もとは第一次世界大戦後に生まれた多数の少数政党の一つで、ドイツ労働者党と称していたが、1919年9月にヒトラーが参加し、弁舌の巧みさでたちまち幹部に抜擢され、1920年3月に国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ドイツ語で、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )と改称した。ナショナリズムは日本語では国家とも、国民とも、民族とも訳されるので、どれを当てはめるか微妙な問題がある。「国民社会主義・・・」とも「国家社会主義・・・」のいずれも使われているが、教科書では「国民」が使われることが多いようだ。
長い名称なので、正式な略称はNSDAPであったが、ドイツでは当初からナチ党と言われ、その党員や協力者はナチス( Nazis )と言われた。ナチスという言い方は、その反対派が使った蔑称であった。また、ナチ党の思想・行動様式をナチズムという。なお「社会主義」と称しているが、この場合はマルクス主義やイギリス・フランスの社会主義とは全く異なっているので注意すること。これは「社会主義」を装うことで労働者の支持を得ようとしたに過ぎず、実態はまったく反社会主義政党である。
ヒトラーの参加
ヒトラーは第一次世界大戦から復員し、ミュンヘンで活動を再開したが、当時のミュンヘンではベルリンの社会民主党政府に対して社会主義革命の実現を求めるレーテ(ロシア語のソヴィエトに当たる)派が共和国を宣言、それに対して社民党政権と反革命義勇軍が反革命クーデターを決行して倒し、さらに右派のフォン=カールが政権を握るという、左右両派の激突が続いていた。ミュンヘン一揆失敗と低迷
1920年3月、ドイツ労働者党は国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、以下、ナチ党とする)と改称、翌21年7月にはヒトラーは独裁権を付与された指導者(党首)となり、10月には党活動の警護を任務とする戦闘部隊として、突撃隊(SA)が創設され、レームが参謀長となった。ヒトラーとナチ党は、1月にフランス軍などのルール占領が行われ、急激なインフレーションが進行するという危機をチャンスとして、11月、ミュンヘン一揆を起こしたが失敗、ヒトラーは逮捕される。この獄中で『我が闘争』を口述筆記し、ナチ党活動の理念化を図った。ナチスの台頭と支配
ナチスは1920年代を通じ、ヴェルサイユ体制への不満、ユダヤ人の排斥などを主張して徐々に台頭し、1932年に総選挙によって第1党となり、1933年に政権を獲得した。その後、共産党などの批判勢力を排除してヒトラー=ナチスの独裁体制を作り、ドイツ民族の生存圏の拡大を唱えて周辺への侵略を開始、1939年に第二次世界大戦に突入した。1945年、ドイツの敗北により、ナチス支配も終焉した。
ナチス台頭の理由
ナチスの宣伝 大衆の「気分の操縦」
ヒトラーは巧みな演説と宣伝で大衆の心を捉えた。宣伝の責任者となったゲッベルスは、新聞、ラジオ、映画、音楽などをつうじて巧みに国民の気分を導いていった。その手法はけして強制的ではなく、「人々に押しつけずに行われた」が、新聞社に対する用語規定の提示などをつうじて、ナチスの主張を浸透させていった。それは「ほとんど天才的ともいえる形の世論の操縦、さらには公衆の気分の操縦だった。」<ハフナー/山田義顕訳『同上書』p.238>敵を作る手法
ヒトラーとナチスが国民大衆の支持を受けるために、意図的に行ったことが「敵を作る」ことであった。ナチスに対する批判勢力を「市民の敵、国民の敵、民族の敵」であるとフレームアップして攻撃することによって、ヒトラー=ナチスの全体支配を正当化していった。それはユダヤ人に対する一貫した敵視にくわえ、まず共産主義者に向けられ、さらに社会主義者、自由主義者に向けられ、場合によっては仲閒にも向けられていった。さらには教会をもナチス体制に対する敵として告発されるに至った。多くの国民は、このようなナチスによる特定の勢力排除を傍観した。しかし気付いたときにはナチスの支配の中に組み込まれてしまっていた。牧師ニーメラーの述懐
このあたりを、戦後のドイツ人が強く反省している例として、よく知られているプロテスタント教会の牧師マルチン=ニーメラーのことばがある。 (引用) ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。<丸山真男『増補版現代政治の思想と行動』1964 未来社刊 p.475> この文は丸山真男が1961年に発表した「現代における人間と政治」で、ミルトン・メイヤー『彼らは自由だと思っていた』1955に紹介されていたニーメラーの言葉を引用したもの。ドイツ人の多くがヒトラー=ナチスの台頭を阻止しなかった(できなかった)ことへの反省の弁として、よく引用されている。 → 1932年選挙(ドイツ) ヒトラー内閣
1937年のライトアップされたナチス党大会
ニュルンベルク Wikimedia Commons
ナチスの党大会
ナチスは国会議員選挙で議会第一党となり、1月にヒトラーが首相となって政権を獲得した。ナチ党は1923年の結成以来の党大会をミュンヘンやワイマールなどで場所を変えて行い、国民へのアピールの機会としていたが、1933年の第5回大会はニュルンベルクで開催、以後はその地が恒例の大会開催都市となった。このナチ党党大会は毎年9月、郊外の公園の特設会場で開催され、開会式で決まってヴァーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』序曲が演奏され、ドイツ人精神を高揚させることから始まった。1934年からは建築家シュペーアのアイデアによってライトアップなどの演出が施され、荘厳・偉大な大会として国民が党に忠誠を誓うセレモニーと変質した。また大会の様子は映画作家レニ=リーフェンシュタールによって映像化(1933年の『信念の勝利』、1935年の『意志の勝利』)され、国内だけでなく世界に流された。