「日本国民」という概念はいつ生まれたのだろうか?──。戦国時代、織田信長が「天下統一」を目指したが、まだまだ領地ごとの統治は続いていた。江戸時代、徳川幕府が日本を牛耳るが海外との交流は閉ざされ、国と価値観は民衆には薄かった。近代化が進んだ明治期に、欧米列強の脅威にさらされ、人々は「日本」を意識しだしたとされ、同時に国の統治の方法も大きく変化した。そんな国の体制と国民という概念のはじまりの歴史をひもといていく。
■「日本国民」という意識が生まれたとき国会議事堂
明治14年、明治天皇から国会開設の詔が発せられ、議会を開く事が表明された。国会議事堂は国民に選ばれた代表者が話し合って、国民のためにさまざまなことを決めていく場として大正期に創建。
日本国民という意識など、日本に生まれ育ち、日本語で会話し、起きている間も夢の中でも日本語で物事を考える人すべてにあって当たり前。ふだん意識せずとも自ずと備わっている。多くの人がそう思いがちだが、実のところ、日本国民や国民国家という意識及び概念は先天的なものでなければ、長い歴史を有する考え方でもなかった。
極端な言い方をすれば、明治になるまで、日本に「国民」は存在しなかった。「くに」と言えば、三河国や尾張国といった7世紀以来の地方行政単位を指すのが普通で、日本全体を指すには「天下」という、範囲の曖昧な語句が用いられた。
明治維新は徳川将軍家を権力の座から引きずり下ろすとともに、藩の枠組みを取り払うことからスタートしたが、その目指すところは、列強による植民地化の回避と不平等条約の改正及び主権国家としての公認、列強への仲間入りにあった。
要は近代国家に生まれ変わらなければ日本の未来は開けず、国際ルールが列強間の合意で決められる時代であれば、列強の価値観に合わせるしかない。列強の説く「文明」を至上の価値として、文明開化の大号令のもと推進された欧化政策はその表われだった、
だが、身分制社会の解体や服装、都市景観の欧化だけで近代国家に変貌できるはずはなく、国防上の必要からも、「日本」という枠組みに帰属意識を一元化させることが求められた。別な言いかをするなら、「国民」と「国民国家」の創設である。
福沢諭吉
明治期の有識者として知られる諭吉は、まだ武士の概念が残る時代に、西洋の事情をはやくから学び「独立した個人による国家の発展」を説いた人物であった。(国立国会図書館蔵)
この問題についてもっとも早い段階で的確な指摘したのは福沢諭吉(ふくざわゆきち)[1834~1901]かもしれない。諭吉は、明治5年(1872)から同9年にかけ第17編までシリーズ刊行した『学問のすすめ』の中で、民衆から客分(きゃくぶん)意識を払拭して、「国民」としての自覚を持たせなければならないと説いた。
福沢諭吉の言う「客分意識」とは、ちゃんと飯を食わしてくれるなら上に立つ者はどこの誰でも構わず、上のやることに逆らいはしないが、情勢不利と見たら逃げ出すのみという考え方で、民衆レベルでこのような意識が浸透したままでは、外国軍が本気で侵略を仕掛けてきたとき、太刀打ちできるはずがなかった。
いざとなれば国家のために命を捨てる覚悟を持たせる。諭吉が「平等」を力説し、「学問」を奨励したのは、そのように民衆を啓蒙するためで、同様の考え方は自由民権運動に受け継がれた。
板垣退助
多くの国民の政治参加を求める自由民権運動を牽引した板垣。国会開催などを求め、国民国家実現のため尽力した。(国立国会図書館蔵)
明治政府も自由民権論者も、近代国家の建設という点では目標を共有していたが、憲法の制定や議会の開設を必要と意識しながら、差し迫った政治課題ではないとする明治政府に対し、自由民権論者の多くは納税・兵役義務と政治参加の権利はセットと訴え、板垣退助(いたがきたいすけ)[1837~1919]や江藤新平(えとうしんぺい)[1834~1874]、副島種臣(そえじまたねおみ)[1828~1905]、由利公正(ゆりきみまさ)[1829~1909]ら8名の署名からなる明治7年(1874)の民選議院設立建白書でも、国家の運命に自分の運命を重ねる意識を民衆に持たせる必要性が強く訴えられた。
民選議院設立建白書
板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。(国立公文書館蔵)
同じく自由民権論者で、自著『民権自由論』の中で、自国の出来事をまるで他人事のように傍観する人は、風向き次第で政府にも外国人にも従順な「ほんに国家の死民でござる」と断じた植木枝盛(うえきえもり)[1857~92]も、自身が理論的指導者を務める立志社(りっししゃ)が明治14年(1881)に起草した『日本憲法見込案』において、「国民は如何なる場合に於いても本国を保護するの義務あり」と訴えた。
国民国家の創設には国民意識の植え付けが不可欠というわけで、中央集権体制に構築に固執する明治政府と自由民権論者との溝は容易に埋まりそうになかったが、明治16年(1883)8月、一年半に及ぶドイツとオーストリアでの憲法調査から伊藤博文(いとうひろふみ)[1841~1909]が帰国してから一気に流れが変わった。明治政府も、確固とした意思決定と安定した政治運営をするには、限られた個人の決断ではなく、一定の制度によるほかないとの考えに傾き、憲法の制定と議会の開設に向けた動きが本格化させたのである。
大日本帝国憲法が制定・公布されたのは明治22年(1889)2月11日、施行されたのは翌年11月29日のこと。評論雑誌『日本』の社主兼主筆の陸羯南(くがかつなん)[1857~1907]は「日本国民は明治二十二年二月十一日を以て生まれたり」とまで言い切っている。
陸羯南は自由民権論者でありながら、欧化主義に反対する立場にあったが、ヨーロッパを自分の目で見てきた伊藤博文は羯南と考えが近く、列強と対等な「一等国」と認められるには独自の文化や伝統が必要との思いを強くしていた。
文明的でありながら、独自の文化や伝統を重んじる。相反するようなこの考えは大日本帝国憲法に続いて制定された明治民法や政府の文化政策に如実に反映された。
日本の伝統と思われがちな「家制度」がつくられたのはまさにこの時期で、「家庭」や「良妻賢母」といった新しい言葉が生まれ、「男は外、女は内」という性別役割分担に基づく「暖かな家庭」が理想形であるかのように喧伝され始めたのも同じく1880年代のこと。伊勢神宮と靖国神社の聖域化、天皇陵の造営・整備が開始されたのも、現在につながる皇室儀礼が定められ、「万世一系」が至上の価値として強調さ始めたのも同じ時期だった。
国民国家創設のために、それまで京都以外の一般民衆にはまったく認識されていなかった天皇が前面に押し出された形である。国民統合のシンボルにしようというわけで、天皇陵や神社には天皇の存在を周知させるに補完的な役割が期待された。
だが、ドイツ人としての意識が対ナポレオン戦争(1799~1815)を通じて芽生え、普仏戦争(1870~71)が決定打となったように、国民意識の普及と定着にはやはり対外危機や対外戦争に勝るものはなく、日本における国民国家意識と国民としての自覚を備えさせる点で決定的な役割を果たしたのは、明治27年(1894)に始まる日清戦争と戦後に降りかかった三国干渉だった。
エトワール凱旋門
フランスのシンボルとして世界中の人々に知られる凱旋門はナポレオンが欧州での地位を向上させたアウステルリッツの戦いの勝利を記念して自身の指示で建築させたものである。フランスが史上もっとも栄華を極めてた時代の建造物として今なおパリの中心にそびえる。